再び立ち上がる力が欲しい。いつだって。
ここ数日、「とても疲れた」と感じている。
ゼィゼィと浅い呼吸で座り込んでしまって、体が言うことを聞いてくれない。
心が、休みを受け取ってくれない。
体も心も、曇り空だ。
けど、人間は生まれた以上、生きるしかない。
心宥め、体をいたわり、「さて行きますか」と立ち上がる以外、道はない。
みんなはどうしているのだろう?
仕事をする人を見るたびに、突撃してインタビューしたい衝動に駆られる。
年上のあなた、先輩のあなた、あなたたちはどうしてそこにいるのですか?
やっぱり、こうやって重い水のように沈む溜息と、ほのかに香るスパイスのような絶望をゴクンと、薬のようにまるまる飲み込んでいるんだろうか。
・ ・ ・
この苦しさから逃れる術を、一つしか知らない。
本を読むこと。
別世界を見せて、生かしてくれる。
この体の半分は文章で出来ていると思うのは、ほとんど訛りを持たないのに言葉の発音が違って、他人に呆れ小ばかにされる時だ。
幼いころ、喋ることよりも読む方が達者すぎた弊害。
学校で学ぶよりも前に、本を読むときに頭の中で勝手に再生された音が、大人になったこの口から飛び出ている。
未だに警戒がゆるむと発音を間違えるので、何とか必死に「普通」を装う日々である。
半分は架空の世界に生き、もう半分は現実に生きている。
もう治せない生き方だ。
呪いのようでもあるし、誇りでもある生き方。
現実に疲れたら架空の世界に移動する。
社会に生きるようになって、そうあってもまだ、生きるのは難しいと思い知っている。
・ ・ ・
写真集は、窓だと信じている。
特に、大竹英洋さんのこの写真集を読んでから、その想いがさらに強くなった。
知らない景色、普段は目を留めない色、気にすることもない木々や動物。
手を伸ばしても、その被写体たちに届くことは、もちろんない。
しかし、写真に撮られた動物たちは、今でも全うしているのだろう。
自らを必死で生かし、子を育て、そして大地に還るという営みを。
そこに写る雄大な自然は、人間と比べることさえはばかられる永い時間を過ごしているのだろう。
写真は不思議だ。
語りかけることもなく、ただ、響く。
心が疲れて何も感じなくても、風も匂いも感じられなくても、内側のどこかが共鳴してくれる。
その響きは、いつか必ず大きくなって、木霊し続ける。
心を通じ、体を飛び越え、現実に届く。
それはきっと、生命の躍動。
普段、意識なんてすることがないほど深いところにある、自身の「生きたい」という根源がもたらす響き。
社会で忘れてしまう「響き」を、厳しい自然の中に潜む優しさが取り戻させてくれる。
写真集を見ると、そのわかりづらい優しさを、撮り手が丁寧に手渡してくれる。
海を越え、時間を超え、荒々しい自然の営みへ。
気が遠くなるほどの古来から、現実に存在する命の輝きの方へ。
「さぁ、命を輝かせよう」
手を伸ばしても届かない風景に、魂が伸ばした手は確かに届く。
私はまだ、立ち上がれる。