カメラマンの子ども
写真が好きだ。
父親が元カメラマンだったからなのだろうか。
目の手術のミスによって視力が低下したため引退したが、学生時代は地元の写真展でぶいぶい言わせるぐらいに写真が上手かった。
実際、家に残っている父の作品を見ると驚くほど上手い。
何でこれを撮ったの? と疑問に思う被写体なのに、作品が持つ「なにか」がじわじわと脳に沁み込んでくる感覚を、自分は「上手い」と呼ぶことにした。
母親は、カメラマンではない。
ただ、モデルの髪や姿勢を正したり、振袖の中に新聞を入れてきれいに見せたりという助手をしていたという。
黒柳徹子さんなどの髪を直したこともあるとか(ホントかなぁ)
自分が幼いころ、母は深夜になるとパッとランプが光る台に白黒写真を乗せて、とんでもなく大きな虫眼鏡を覗き込んでいた。
何をしているのか。
本来寝ていなければならない幼児はこっそりと覗き見て、集中して一緒に寝てくれない母親を恨めし気に見つめた。
母が握る鉛筆は芯が半分以上露出していて、今だったらPhotoshopで数秒で出来る「修正」の作業を黙々と行っていたのだ。
今はいくらでも写真が取れる。少し学べば、その画像を誰でも直せる。そんなすごい時代なのはわかる。
けれど、あの母の黙々と職人になっていた姿と、あの父が一枚に気持ちを込めて撮った写真を見てしまうと、今のデータとしていくらでも取れる写真がなんとも「勿体ない」気がしてしまう。
父は言う。
「昔は写真一枚を現像するのにとても時間が必要だった。金もかかった。だから今の撮り方は好きじゃない」
一枚のためだけに、ただひたすら「心に触れる一瞬」を待つ。
何百枚も撮って、その中から一枚を選ぶ今の写真と、たった一枚にすべてをかけた昔の写真に込められるものの違いに、想いを馳せる。
以前、「写真が留めている時間が面白い」と話した。
一枚の写真は、大きな流れから切り離されている。
しかし、その「切り離された流れ」を夢想するのが楽しいのだ。そこに流れる空気の色を、温度を、音を、気配を、一枚の写真に見るのだと。
その話をした時、「それは映像と何が違うのか」と問われた。
はっ、確かに。
そういわれて、うううと口ごもってしまった。自分はその回答を持っていなかった。考えたことすらなかった。
ちょっと、悔しい。
映像は情報満載だ。ストーリーを語るため、「伏線」を張り見るものの想像を掻き立てる。
けれど、写真はちょっと違うんじゃないか。
伏線は不要。心にふわりと触れた瞬間の光景を、時間という大きな流れからささやかに切り取る。
不足した情報の中に内包された広大な世界。
それを想像するのが好きで、いくつかの写真集を持つようになった。
最近は大竹英洋さんの『THE NORTH WOODS』を椅子の隣に置いて、ふとした瞬間にページを開いている。
そこには現実に縛られるものはなく、無限に響く蹄の音を聞くことも、永遠に水の中の輝きを見守ることも、水面の波紋が広がる音さえ聞くことができる。
だから、写真が好きだ。いつか自分でもそんな「語る写真」を撮ってみたいと思うほどには。
1月29日、とうとう30歳という年齢になった。
正直、30歳まで生きているという事実に驚くし、そこまで育ててくれた両親にもここまでくると「イヤほんと30年ご迷惑をお掛けしております」と頭を下げるしかない。
30年前、もし自分が男性として生まれた場合の名前は「瞬」という。
父が「瞬間を切り取る仕事だから」というのが理由だそうな。
血は争えないなぁと思う。
写真を撮ることに興味を持ち続け、とうとうカメラまで買ってしまい、心に触れる瞬間を探す日々を今、自分は過ごしている。
父もきっと、こうだったのだろう。
だから、その楽しさを伝えるために、「瞬」と名付けたんだろう。
これを母からこっそり聞いて以来、「瞬間を切り取る」という言葉がとても好きになったのは、ちょっとした秘密である。