当事者ではなく、あえての傍観者としての日記
テレワークが進んでいる。
人と人を引き剥がす感染症によって、時代が恐ろしいまでに変革を余儀なくされている。
一番苦しいのは、「人に近づかないように」と気を使う自分自身だ。
数分間のごみ捨ての時、すれ違う時、まだワクチン接種ができていない私は2mの距離を保つようにしている。
触れ合うのさえ怖い。セルフレジが怖い。釣銭が怖い。
渡すのも、渡されるのも。
近くでしゃべり合うのも論外だ。
しかし、接客が必要な職業柄、毎日痛感するのだが、来客の様子によっては、近くに行く必要があり、大声でしゃべる必要があり、向こうの声をガード越しに聞く必要がある。
それでがりがりと何かが削られる、ということは、もうない。
あぁ、慣れ始めたな、と思う。
この距離感、この危機感を常に抱くことに。
逆に人と触れ合えるということが、本来、どれくらい貴重で奇跡的なことだったのか。
相手と場と空気を共有する―ーそれは、実は、自分が結構、他者に心を許していたということだったのかを、思い知り始めている。
そんな毎日の中で、ふと、好きなミステリーの一場面を思い出すことが増えた。
「すべてがFになる」
著者である森博嗣氏は、真実、工学博士であった人だ。
PCは8bitの時代を知り、元プログラマーとしては首が千切れるほど首肯しかできない言葉をエッセイ「道なき未知」の中に多々残している(ただし、この本は現在、母に取られてまだ読めていない)
さて、この作中で魅了的なキャラクターは多々いるが、その中でも飛び切り突き抜けているのが「真賀田四季」という女性である。
彼女は天才だ。
世が勝手にもてはやして呼ぶ「天才」ではなく、おそらく「人外」に等しい天才として描かれている。
彼女の頭脳は広大にして強大すぎて、人に興味を持った理由が「彼女の頭が悪くなったから」と主人公に推測されるほど常軌を逸している。
彼女の分野は、今でいうICTとでもいえばいいか。
プログラマーとして数々の功績を残したが、とある理由で孤島に幽閉されている。(余談だが、ミステリーってのは本当にどこまで情報を出していいのかわからない)
物語は、語り手となる西之園萌絵が真賀田四季と画面越しに会話することから始まる。
そう、画面越し。
萌絵が四季のいる孤島まで移動する必要があったとはいえ、作中ではすでにZOOMが出来ているわけだ。
その上で、萌絵と四季は「仮想現実について」に言及する。
「物質的なアクセスはなくなりますか?」
「そうね、おそらく、宝石のように贅沢品になるでしょう。他人と実際に握手をすることでさえ、特別なことになる。人と人が触れ合うような機会は、贅沢品です。」
中略
「地球環境を守りたいのなら、人は移動すべきではありません」
初見でこれを読んだとき、頭の中に浮かんだのは「攻殻機動隊」のような、まだ研究途中であるはずの電子世界のイメージだった。
しかし、現実は小説を侵食し始めている。
自分たちは今、彼女が語った世界に片足を踏み入れたのだ。
真賀田四季は言う。
「人間にそれを受け入れる用意があるのかという道徳的な問題」
「生まれながらにバーチャルリアリティの環境で育つ世代には受け入れられるでしょう。人間はプログラムより柔軟ですからね。人間のリアクションの問題も、ジェネレーションが変われば解決するでしょう」
ねぇ、ゾワリとしませんか。
この文を読むたびに、どうしようもない興奮に駆られてしまう。
常識的には、この時代のこういう内容で興奮するなんてNGかもしれない。
しかし、構うもんか、と思う。
こういうご時世だからこそ、自分の感覚を最優先にさせてもらう。常識ある範囲で自己中心的にならないと、多分潰れてしまうから。
人はあと数年といわず、今後しばらく「ふれあい」を尊いものとして生きた方がいい。
少なくとも、この災難がもたらした、たった一つの良いものは、これぐらいしかないのではないか。
空気を共有すること、誰かと語らうこと、未来に希望を抱くこと。
また、上記で言及されている「地球の問題」も含め、今一度すべてを冷静に見つめ直す時が来たんだろう。
それらすべてが、宝石のような贅沢品だったと知ったからこそ、今ならそれができる。