この時期はアップルティーで過ごすと決めている。
ここ数日で、今までずっと張り付いていた殻を破った気がする。
必死で頭を動かして、通常の仕事を「お金を稼ぐため」とはっきりと脳内で切り分けて、本当に自分がやりたいことに力を注ぐことが初めてできたようだ。
ささやかなイベントに行ったり、普段は決してやらない売り子をやってみたり。
そういう体験がぺり、ぺり、と小さな音を立てながら、殻を破るきっかけになったに違いない。
こうやって日常を過ごしていく中、隣にあったのは必ずアップルティーだった。
私が好んでいるのはロンドンティールームの茶葉。ちなみにポットでもお世話になっている。
普段からストレートで飲むことが多く、おすすめのミルクティーはあまり淹れたことがない。相性のいいミルクを持っていないということもあるだろうけど。(イギリスのように脂質が多めのほうがいいらしいよ)
普段から三種類買っているのだが、その中で必ず、春~夏はジャスミンティー、秋~冬はアップルティーを購入する。
ひっそりと自分だけで決めているこの取り決めは、意外にも私に季節をしっかりと意識させてくれる。
コーヒーももちろん好きなのだけど、まだまだ未熟者なので「〇〇ブレンド」の違いが正直わからなかったりする。反省。
皆様もぜひぜひ、片手にアップルティーでこの冬を過ごされてはいかがだろうか。
30歳になってからの悩み。それを理解するための最初の一歩
年齢が30になって数か月経った。
いやでも、結婚という言葉を意識せざるを得ない年齢になった。出産という言葉もまた同じく。
Twitterでも、結婚をしていない女性や、ジェンダーの話など、絶対的だった【性別】の基盤が揺れ、それに伴って【結婚】や【恋愛】という定義も揺れていると思う。
自分も考えることが多くなった。
例えば、【子ども】とは可愛く大切な存在だと知っている。
が、悲しいかな。
若者に降りかかる経済的な問題や、異性パートナーの理解が浅いというマイナス部分があまりに大きく見える。
実際、街中で見るのが、たいていお母さんと赤ちゃんだけという事実が、よりマイナス面を大きく見せてくる。
しかし、【自分の両親はもう孫がいてもいい年齢である】という事実を考えると、どうしても気分が落ちていく。
何か、悪いことをしているというか、親孝行が全くできていないような気がしてしまう。
そして、自分はこのまま結婚しない方向で生きるのだろうという漠然とした心の覚悟があることが、なおさら、ひそやかな罪悪感を増幅させる。
両親は、そのことについては一言も何も言わない。
自分の好きなように生きればいいという。
そういうのには個人差があるから、と。
今までずっと、自分は中性的な性質だと思って生きてきた。
そのせいもあるかもしれないが、結婚願望どころか、恋愛にまったく興味がない。
最近、それがちょっと病的なレベルだと気が付いたが、たぶん、人嫌いという根っこの部分が強く影響している。
女友達が、街で吞みながら行う【街コン】で相手を探していると聞いて、「大丈夫なのそれ」と危うさを感じた。そこまでして恋人や理解者が欲しいというのが全く理解できない。必要とさえ思えない。
今の生き方が好きだ。
創作をすること、知識を得ること、しいてほしいならば、この二つの力になる人が欲しいが、それさえ、ネットの中の付き合いでほどほどに満足している。
結婚すること、恋愛することはとても楽しい時間なのだと思う(結婚については、そう信じているといったほうがいいが)
【何事も経験】とは思うけれど、今の生き方・在り方に満足し、他の人が必要としていることが理解できないものの、それを否定をする気もない。それはきっと、人それぞれだろうから。
ただ、その友人に限っての話なのだが、【彼氏にフラれたから鬱になりかけた】はちょっと大変なので、一緒にいたい願望もほどほどにね、と常に思っている。
すべてにおける最初の一歩。
理解できないとは思いつつも、相手のことを理解しようとすること。
そのために、自分は常に考えよう。
それがたとえ、永遠に答えが出なかったり、自分には太刀打ちできないような大きな問題であろうとも。
風が吹けば書けるのに
そう考えるのは傲慢かな、とも思う。
文章を仕事にしている人にこの言い訳は許されない。
しかし、幸い、「これから」頑張ろうという身なので、今はこれに甘えてもいいかー。
みんなが【インプット】と使うもの。それが自分にとっての【風】だと思っている。
音楽や新しい出会い、新たな体験をすると、心の中に風が吹く。
ここ数か月、その風が吹かなくなった。
今まで【楽しい】だったことを、【楽しい】と思えなくなった。心が感じなくなった。
だから、noteにもブログにも、物理的な日記にさえ手を付けられず、書きたい衝動だけはあるのに実際にペンを持ったり、キーボードに指を添えるとピタリと何も動けなくなっている。
浮かばないのだ。何も。
なんだか、死を疑似体験しているようだった。
もちろん、書かなければ死んでしまうというわけではないけれど、それでも心は死に続けている気がした。
同時に、本も読めなくなった。
面白くないのだ。以前は辞書でさえ面白いと思いながら読んだ人間が、こうなるなんて誰が想像できただろう。
空っぽだったらまだよかった。足元さえおぼつかない日々に、無になった気がしている。
風が吹かない。
21日、初めてデザインフェスタに赴くことになった。
売り子の手伝いとしてひょこっと顔を出すだけだが、【ハンドメイド作家】という人達の在り方は、なんだかすごく眩しい。
もちろん、想像を絶する苦労もあるんだと思う。
それを予想した上で、やっぱり思う。
一つ一つの作品に想いが込められている。その人の人生観や、何かキラキラしたものが手に取る作品に秘められている。
「あぁ、いいなぁ」
こういう輝きは、自分も知っている。
自分の中にあることを知っている。
それが出てこないのがひどく歯がゆい毎日だけれど、その間に体験できないこと、したことのないことをすべてやりたい。
本が読めないのならば実際に行けばいい。
面白く思えなくても、本物を目にすればいい。
仕事も不調で出勤日が少なく、自由にできるお金は少ない。
それでも、できることは何かある。
心が風を感じるまで、待ってみる。
カメラマンの子ども
写真が好きだ。
父親が元カメラマンだったからなのだろうか。
目の手術のミスによって視力が低下したため引退したが、学生時代は地元の写真展でぶいぶい言わせるぐらいに写真が上手かった。
実際、家に残っている父の作品を見ると驚くほど上手い。
何でこれを撮ったの? と疑問に思う被写体なのに、作品が持つ「なにか」がじわじわと脳に沁み込んでくる感覚を、自分は「上手い」と呼ぶことにした。
母親は、カメラマンではない。
ただ、モデルの髪や姿勢を正したり、振袖の中に新聞を入れてきれいに見せたりという助手をしていたという。
黒柳徹子さんなどの髪を直したこともあるとか(ホントかなぁ)
自分が幼いころ、母は深夜になるとパッとランプが光る台に白黒写真を乗せて、とんでもなく大きな虫眼鏡を覗き込んでいた。
何をしているのか。
本来寝ていなければならない幼児はこっそりと覗き見て、集中して一緒に寝てくれない母親を恨めし気に見つめた。
母が握る鉛筆は芯が半分以上露出していて、今だったらPhotoshopで数秒で出来る「修正」の作業を黙々と行っていたのだ。
今はいくらでも写真が取れる。少し学べば、その画像を誰でも直せる。そんなすごい時代なのはわかる。
けれど、あの母の黙々と職人になっていた姿と、あの父が一枚に気持ちを込めて撮った写真を見てしまうと、今のデータとしていくらでも取れる写真がなんとも「勿体ない」気がしてしまう。
父は言う。
「昔は写真一枚を現像するのにとても時間が必要だった。金もかかった。だから今の撮り方は好きじゃない」
一枚のためだけに、ただひたすら「心に触れる一瞬」を待つ。
何百枚も撮って、その中から一枚を選ぶ今の写真と、たった一枚にすべてをかけた昔の写真に込められるものの違いに、想いを馳せる。
以前、「写真が留めている時間が面白い」と話した。
一枚の写真は、大きな流れから切り離されている。
しかし、その「切り離された流れ」を夢想するのが楽しいのだ。そこに流れる空気の色を、温度を、音を、気配を、一枚の写真に見るのだと。
その話をした時、「それは映像と何が違うのか」と問われた。
はっ、確かに。
そういわれて、うううと口ごもってしまった。自分はその回答を持っていなかった。考えたことすらなかった。
ちょっと、悔しい。
映像は情報満載だ。ストーリーを語るため、「伏線」を張り見るものの想像を掻き立てる。
けれど、写真はちょっと違うんじゃないか。
伏線は不要。心にふわりと触れた瞬間の光景を、時間という大きな流れからささやかに切り取る。
不足した情報の中に内包された広大な世界。
それを想像するのが好きで、いくつかの写真集を持つようになった。
最近は大竹英洋さんの『THE NORTH WOODS』を椅子の隣に置いて、ふとした瞬間にページを開いている。
そこには現実に縛られるものはなく、無限に響く蹄の音を聞くことも、永遠に水の中の輝きを見守ることも、水面の波紋が広がる音さえ聞くことができる。
だから、写真が好きだ。いつか自分でもそんな「語る写真」を撮ってみたいと思うほどには。
1月29日、とうとう30歳という年齢になった。
正直、30歳まで生きているという事実に驚くし、そこまで育ててくれた両親にもここまでくると「イヤほんと30年ご迷惑をお掛けしております」と頭を下げるしかない。
30年前、もし自分が男性として生まれた場合の名前は「瞬」という。
父が「瞬間を切り取る仕事だから」というのが理由だそうな。
血は争えないなぁと思う。
写真を撮ることに興味を持ち続け、とうとうカメラまで買ってしまい、心に触れる瞬間を探す日々を今、自分は過ごしている。
父もきっと、こうだったのだろう。
だから、その楽しさを伝えるために、「瞬」と名付けたんだろう。
これを母からこっそり聞いて以来、「瞬間を切り取る」という言葉がとても好きになったのは、ちょっとした秘密である。
「モーニングルーティン」の勉強をしています。
最近、Youtubeの日常系動画(vlogというらしい)を見るのがマイブームになっている。
憧れている北欧に住む日本人夫婦・本場イギリスでアンティークに囲まれて生活する夫婦など、日本のこたつの中から見ていると「別世界だなぁ」と思う。
ただ、そんな中、世界にひかれた見えない線を越えて全員が気にかけているのが、モーニングルーティンのようだ。
試しに検索してみると、「一人暮らし男性の~」「○○歳OLの~」という冠をつけていくつもの動画を見つけることができる。
いくつか見た中で、「いやぁそれは理想論だよ」というものもあったし、「お、これはできるかもしれないな」と思うものも多くあった。
ちなみに、自分は現在朝早く起きることができない。
目覚ましが6個同時に鳴ろうとも起きないという、そろそろギネスブックに登録しようかなと思うぐらい朝に弱い。
そんな自分が今、なんとか実践できている朝活をご紹介しよう。
換気をする
朝起きると、部屋の空気が濁っているように感じる。
そういう時は絶対に何か濁っているのだ(気分の問題)。
たとえ最上級の寒波がこようとも、幸い雪がほぼ降らない関東平野に住んでいるのだから、空気の浄化ぐらいはしなくては。
基本的に寝ぼけながら辛うじてカーテンを開けているのだが、部屋に入ってくる空気を浴びると、シャワーを浴びる以上に体にまとわりつく眠気が去っていくように感じる。
白湯を飲む
我が家では祖父が置いていった鉄瓶が活躍している。
紅茶やコーヒーも不思議と通常のケトルで沸かすのと味が異なるのだが、そこはまた別にどこかで書くことにしよう。
鉄瓶で、水道水ではなくペットボトルなどの水を沸かす。しかし、寝ぼけた頭で沸騰したお湯を口に付けるのは非常に危険だ。
そのため、3分の2くらいはお湯、残りを冷たい水で温度を中和させて飲む。
ふぅふぅと冷やす必要もなく、かといって一気飲みできるほど冷たくもない。
それをマグカップに入れ終わったら、もう一つの朝活の準備をする。
本を読む
白湯を用意し、椅子に座って本を読む。
本当は勉強ぐらいできればいいのだけれど、残念ながらそこまで覚醒していない。
本のジャンルは様々だが、唯一設けたルールは「新刊であること」だ。
自分は大概一度読んだ本は内容を記憶してしまう。とはいっても、文章を読むときに脳内で映像となるタイプなので、一文一句覚えているという驚異的なものじゃない。
ただ、それでも大概の流れや場面は把握してしまうので、ただでさえ内容が映像を意識しているライトノベルは、読むとほぼ完全暗記と言っていい。
閑話休題。
朝、白湯を少しずつ口に含みながら読んでいる本は今、2冊ある。
その日の気分によってどちらかが変わっているので、まだ読了していない。
『CAFICT コーヒーと暮らす。』 くぼた まりこさん
この方も元々は動画で知ったのだが、コーヒーの器具やカップ、料理や使っている日用品に至るまでとても丁寧に動画内で説明しており、コーヒー好きでもある自分にとっては「師匠!」と呼びたくなるほど、コーヒー器具や豆に関して詳細なレビューがもらえる。
今回、そんなCAFICTさんが本を出版されたとのことで購入。
動画と同じ、いや、それ以上に素敵な写真と、いつもよりも詩的で優しい言葉の数々が朝の寝ぼけ頭にじんわりと暖かく染みわたる。
『村上ラヂオ3 サラダ好きのライオン』村上 春樹さん
村上さんの本は小説も好きだが、エッセイの方がかなり好き。
実をいうと、現在ネットラジオで放送している「村上ラジオ」を聞いて興味を持ち、エッセイを手に取ったらドはまりした。
今はこの『村上ラヂオ3』を噛み締めるように一つずつ読んでいる。
豊かな言葉とひょうきんな雰囲気。
決して突き飛ばしているわけではないのに、他の作家さんよりもいい意味で「他人」という感じがしつつも、どうしてもページを進めてしまう不思議な魅力。
なるほど、これが村上マジックですかそうですか。
これもまた、朝の頭にいい感じに染みわたる。本当にラジオを聴いているような気分になってくる。
では最後に、残念ながら現在休止中の朝活をご紹介します
モーニング・ページ
『ずっとやりたかったことを、やりなさい』 ジュリア・キャメロンさん
この本の中で、「朝、起きたらすぐに3ページを何でもいいから埋める」という日記というより、愚痴・迷い・希望・願望なんでも書き込んでいきなさいというススメ。
(もっとしっかりとした様々な根拠がありますので、気になる方は上記画像からamazonリンクへどうぞ)
半年くらい、がりがりとノートに書き込み、3冊のノートがみっちり書き込まれていたのだが、冬になった途端にペンがとまった。
というのも、自分の部屋というのが、それはもう寒いのだ。
実家暮らしなので、そこ以外だとテレビがうるさかったり、話しかけられてしまったりと全く集中できない。
かといって、布団の中で書くと変な体勢で書いてしまうので、後で肩に激痛が走る。
そのため、泣く泣く冬の最中は取りやめとなった朝活です。
モーニング・ページを書くと、不思議と心の澱がさぁっと流れていくような感覚があり、メンタル的にもずいぶん気が楽になったので、本当に再開したいのですが。
春と同時に絶対に再開するので、朝、部屋が暖かくできる方はぜひやってみてください。
以上、モーニングルーティンかつ朝活のご紹介でした。
本当を言えば、平安貴族のように夜明けとともに起きて、自然をぼーっと見つつ、上記の事をこなしていきたい。
残念ながら、そこまで自然豊かな場所にいないのと、絶望的に朝に弱いので、早起きのコツなどありましたら是非教えてくださいな。
正月過ぎてクリスマスカラーのグリューワインを呑みながら書き初めるブログ
さて9日。
皆さんは七草粥、食べました?
自分は草が嫌いなので、卵ふわふわの中華粥を食べました。
前職では、飲み会常連なのに「野菜が見えない人」という理由で、飲み会の呪うべき前菜であるサラダから逃走していたのはいい思い出です。
ちなみに今も、飲み屋のサラダほどこの世で嫌悪すべきものはありません。
ドレッシングがまばらにしかかかっておらず、口に含んだ途端に謎の香りがする草がふんだんに含まれた上にあの大量にある草。人はまずスマホの前に兎を常備しろというのだろうか、居酒屋め。
さて、ここ数回ほど「自分で書いていて憂鬱になる内容」しか、こちらに書いていなかったことをここで謝罪します。ぺこ。
かといって気が利いた内容も書けないんだけど。
noteで読まれた方もいるかもしれませんが、今は「抑うつ状態」というひゃっほーな診断が出てくれたおかげで12月中休職、1月もひぇっとなるぐらいシフト入っていません。これが天国か。
とはいえ、仕事に駆り出されれば途端に症状が爆発するだろうということ。
じゃあまあ、もう「会社員」に付き合わなくてもいっか。。。
そう思い、正社員からパートに格下げてもらいました。
会社の上司はいつも「人材費が。。。」って悩んでいたから渡りに船だったみたい。厚生年金や保険関係に頭が悩むものの、少なくとも時間だけは手に入れました。
「副業始めます!」と大声を出してみて、ポートフォリオをnoteで作ったのが数時間前。
……うーん。どうなるんでしょ???
ともあれ、貼り紙は出したのでちょっと待ちます。声掛けもしたほうがいいのかなぁと悩みながらも、一応病人なので無理せずにスローに進みたい。
あぁ、そうそう。
このブログは冷蔵庫に眠っていたクリスマス用のグリューワインを呑みながら書いています。季節感がないとはまさにこのこと。
せめて日本酒でも飲めばよかったでしょうかね?
毎年お世話になっているお店の方から、大晦日前に日本酒を購入しに行くと「今回は真澄じゃないんですね」と驚かれました。
……いや、真澄は好きだけどね。
今回はNHKで香取慎吾が主役だった新選組が再放送だということで、ふと会津のお酒を手に取っていたのです。会津中将。きりっとしたお味でした。
さて、皆さんはどんなお正月を過ごされ、どんな抱負を持たれたのでしょうか。
自分の抱負は「副業スタート」です。
副業と言っているけれど、本職よりもこちらに力を入れたいのが本心です。
「エッセイをコラムで書きたいなぁ」
インタビューも素敵ですが、自分はエッセイが好きなので。
何とか今年も頑張っていこうと思います。
皆様、今年もゆるりとお付き合いいただければと思います。
千羽はる
当たるも八卦当たらぬも八卦、というスタイル
占いが好きである。
その結果により人生を左右させたり、恋人と結婚できるかとか、前世からの荷物があるからなどということではなく、「昔の人が必死に未来を探ろうとした」という確固たる事実が好きで、その延長上の「少しだけそうかもしれないよね」という未来予想が楽しい。
(ちなみに、嫌な結果は記憶から削除する。占いの結果、嫌な気分で過ごす必要はないから)
最近、色々なネガティブを受け止め続けた結果、現状の自分は悲観的であまりいいコンディションとは言えなくなってしまった。
noteは書けない、読書も楽しくない、休みに休息ができない、イライラ、うにゅうにゅ(?)。
そう気づき、ふと20代を振り返ってみた。
自分は現在29歳。あと数か月で30年生きたことになる。
20代といえば楽しい時期だと人は言う。
学ぶ年齢で、遊ぶ年齢で、痛い思いもすれば楽しく美しい体験もするのだと。
残念ながら、自分にはそれがなかった。
積み上げてきたものがないとは決して言わない。
それでも、この10年を思い返すと印象に残ったことがほとんどなかった。
必死で生きた。ただそれだけ。
「一般人」と違うことをまざまざと突き付けられ、「社会人」として不合格であることを奥歯で味わい、それでも取り繕って生きたのだろう。
占いが言ってた。「あなたは十分頑張りました」
あぁ、頑張ったのか、そっか。
10年を振り返って「ひえ」と小さな悲鳴を上げ、その先にある未踏の10年に「わぁ」とあきれた声を出す。
せっかくの未踏の道を、同じ色で塗りたくはない。
フリーランス、という言葉が頭の中でぽわぽわ光っている。
会社に縛られた10年を過ごした。「安定」と必死に手を繋ぐ10年を過ごした。
もういいかな。占いが言う。「あなたは下半期、心を取り戻す」
占いというのは、結局のところ、自分で成果を出すときの言い訳だ。
やりたいことがあるならいけばいい。
迷子なら占いが言った方向に試しに進んでみればいい。
まだ思い付きほやほやの「フリーランス」という言葉。
なにから手を付けていいのか、正直、まったくわからない。
ただ、思い立ったのでやってみようと思っている。
どうせ自分の一度きりの人生なのだから、後悔しようと悔いなき道を歩んでみたい。
(※noteで書くと、優しい人からあまりにも暖かい言葉をもらえてしまうけど、最近その事実に少しもやもやがあるのでこちらだけに書いてみました。noteはねぇ、小説だけにしたいなぁと思う今日この頃)