「まだ死にたくない」と、物書きの自分が叫んでいた。
文章は困ったもので、しばらく書かないと暴走を始める。
雨水の溜まったタンクの口を一気に開いてしまう様に、ドバドバドバ、とんでもない勢いで、文字の中に気持ちが溢れかえってしまう。
しかし、最近はご時世のためか、どうしても文章に影が差す。
洗練された影は、文章に深みを持たせるが、これはいわば火山灰のようなものだ。
熱くて、痛くて、不快で、でもどうしようもなく全員に平等に降り積もる。
こういうことは書きたくない。こういう息苦しさは誰かに見せたくない。
だから、しばらく書くのを諦めていた。
文章についてのブログを書くことすら、今3回消してやり直しているところだ。
それでも書くのは、タンクが溢れてしまったからである。
残念ながら、本来、人に見せるべき文章ではないだろう。
けれど、最近ふと思った。
「私は誰のために書いているんだ?」
言葉とは、放てばもうこの手には戻らない。
元気づける文章を、元気じゃない今は書けない。
誰かを想う文章を、自分の世話で手一杯な奴が書いていいわけがない。
noteは、なんだかあまりにも息苦しくて。
もう読まれない文章になってきた自覚がある。
だからこそ、「誰のために書いているか」に立ち返った。
別に、誰でもいいのだ。今のところ。
そう思えるようになったのは、村上春樹さんの「遠い太鼓」を読んだから。
最近、「村上ラジヲ」を聞くようになり、彼が選ぶジャズや音楽の心地いいこと。
それにつられて、少しずつ、村上さんの本を読むようになった。
噛み締めるように、読んでいる。
セピア色のレンガ造りの街を歩く。
冬が厳しい国なのか、歩く人々は分厚い外套を羽織っているが、その足並みはくつろぐようにゆっくりだ。
そんな中、誰かが大きな写真集を開いている。そのページだけ、シャルトルブルーのように深く青く、鮮やか。
村上春樹さんの作品を読んでいて、こんな情景が浮かんでいる。
「遠い太鼓」の中で、今、深く胸を穿つ文章に行き当たった(まだ読了していないのだ)。
「午前三時五十分の小さな死」
だから長い小説を書いているとき、僕はいつも頭のどこかで死について考えている。
中略
僕は死にたくない・死にたくない・死にたくないと思いつづけている。少なくともその小説を無事に書きあげるまでは絶対に死にたくない。
中略
あるいはこれは文学史に残るような立派な作品にはならないかもしれない、でも少なくともそれは僕自身なのだ。
あぁ、あぁ、あぁ! そうだ。そうなんだ!
常に「終わり」という影が付きまとい、その「死について考える=終わり」こそが愛おしい。
私は、これが書きたかった。
影が足りなくて、影を書くことが怖くて、まだ書けていないから。
誰に見られなくても構わない。それこそ死んで引き出しの中で虫に食われても気にならない。
それをいつか書くまでは。
死にたくないんだと、物書きの自分は、気づいた。