月草茶ばなし

何でもないことを、お茶の時間に楽しめるように、作家未満の物書きが綴ります。

白と黒のように真逆な心が、物語を生んでいる

信じるよりも、疑う方が容易い世の中だ。

 

仕事に向かい、すべてを肯定するわけではなくて疑いを持って生きている。

(これは本当に最適解?これは合理的?効率的な仕事なの?必要なことなの?この人は本当にこう思っている? この人は何に怒っている? このお客さんは何を望んでいる?この言葉は、お願いは、指示は、本当のこと?)

 

町に住み、すべてをあるがままに見るのではなくて疑いながら住んでいる。

(このおばさんは本当に笑ってる? このおじさんは本当に満足している?この人はこちらに何を求めている?相手はサービス業だけど、裏側で何を思っている?)

 

先日、noteに公開した「頭蓋骨に問う」は、そういう「疑う自分」が書いた小説だ。

 

note.com

 

そう。自分は、「疑うこと」が決して嫌いじゃない。

そこから物語が生まれるのなら、多少、生きにくくても「まぁ仕方ないよね」とため息をついて許してしまう。

 

だが、それに反発する自分も現れる。

 

「そんなに悲観的にならなくていいじゃないか。疑心暗鬼になるなんて時間がもったいない。もっと世界に肯定的に生きなよ」という自分が書いたのが、別のnote、「ぼくらは呼吸をしている」となる。

 

note.com

 

分裂する自分については、病名がつくものじゃない。

その気になれば、何か命名できるのかもしれないけれど。

 

こういう生きづらさを周りに理解してもらおうとは思わないから、受け入れながら生きている。

 

だから、ほっとする時間は、自分にとって誰よりも必要。

 

多分、人の5倍ぐらい面倒くさい生き方をしているのかもしれないから。(他の人になれないから比べようがないけれど)

 

北欧の、フィーカという時間が気になっている。

 

Wikipediaを開くと、「仕事中に設ける甘いものを付属したコーヒーブレイク」と出た。

フィーカやヒュッゲについては、色々な番組や動画が出ているから説明は割愛。

そんな中で、一冊の本に出会った。

リュッケ 人生を豊かにする「6つの宝物」 (単行本)

 

「表紙がきれいだな」と購入した本。

この作者はもともと「ヒュッゲ」という本を出しているのだけれど、そちらはまだ未読。

デンマークを基準とした「幸せについて」を書いている本で、まだ心の中でかみ砕けていないから、ちゃんとした書評は後日。

 

ただ、「あぁ、今、感じていることは間違っていないんだなぁ」と納得できた。

現在の仕事について、疑問がとまらない。

給与・勤務時間についてはもちろん契約通り。

 

ただ、この本の中にあった、「満足度」というものが、圧倒的に足りないことに気づいた。

 

社会人という安定にしがみつくあまり、「満足度」については後回しにしている自分が、ここにいた。

 

今の生活でいるままでは、息ができない。

 

息ができない=満足していないだと気づいたのは、確かにこの本のおかげだった。

 

願わくば、少しだけ息をさせてほしい。

 

今までずっとそう願っていただけだったけれど、この本を読んでから、もう一つ願いが増えた。

 

「人のために、自分には何ができるのだろう?」

 

安定から飛び出すことはできなくはない。ただ、その先を長い時間歩いていくための「何か」がなくて、ずっと飛び出すことができずにいた。

 

その「何か」とはきっと、「誰かのために」ということ。

 

「人に親切にあれ」

 

とんでもなく当たり前のことを仕事に出来たら、「やりがい」とは違う満足度が得られるのではないだろうか。

 

ぼんやりとそんなことを考えて、今日、本を閉じた。

当事者ではなく、あえての傍観者としての日記

テレワークが進んでいる。

 

人と人を引き剥がす感染症によって、時代が恐ろしいまでに変革を余儀なくされている。

一番苦しいのは、「人に近づかないように」と気を使う自分自身だ。

 

数分間のごみ捨ての時、すれ違う時、まだワクチン接種ができていない私は2mの距離を保つようにしている。

触れ合うのさえ怖い。セルフレジが怖い。釣銭が怖い。

 

渡すのも、渡されるのも。

近くでしゃべり合うのも論外だ。

しかし、接客が必要な職業柄、毎日痛感するのだが、来客の様子によっては、近くに行く必要があり、大声でしゃべる必要があり、向こうの声をガード越しに聞く必要がある。

 

それでがりがりと何かが削られる、ということは、もうない。

 

あぁ、慣れ始めたな、と思う。

この距離感、この危機感を常に抱くことに。

 

逆に人と触れ合えるということが、本来、どれくらい貴重で奇跡的なことだったのか。

相手と場と空気を共有する―ーそれは、実は、自分が結構、他者に心を許していたということだったのかを、思い知り始めている。

 

そんな毎日の中で、ふと、好きなミステリーの一場面を思い出すことが増えた。

「すべてがFになる」

すべてがFになる THE PERFECT INSIDER S&Mシリーズ (講談社文庫)

著者である森博嗣氏は、真実、工学博士であった人だ。

 

PCは8bitの時代を知り、元プログラマーとしては首が千切れるほど首肯しかできない言葉をエッセイ「道なき未知」の中に多々残している(ただし、この本は現在、母に取られてまだ読めていない)

 

さて、この作中で魅了的なキャラクターは多々いるが、その中でも飛び切り突き抜けているのが「真賀田四季」という女性である。

 

彼女は天才だ。

 

世が勝手にもてはやして呼ぶ「天才」ではなく、おそらく「人外」に等しい天才として描かれている。

彼女の頭脳は広大にして強大すぎて、人に興味を持った理由が「彼女の頭が悪くなったから」と主人公に推測されるほど常軌を逸している。

 

彼女の分野は、今でいうICTとでもいえばいいか。

プログラマーとして数々の功績を残したが、とある理由で孤島に幽閉されている。(余談だが、ミステリーってのは本当にどこまで情報を出していいのかわからない)

 

物語は、語り手となる西之園萌絵真賀田四季と画面越しに会話することから始まる。

そう、画面越し。

萌絵が四季のいる孤島まで移動する必要があったとはいえ、作中ではすでにZOOMが出来ているわけだ。

 

その上で、萌絵と四季は「仮想現実について」に言及する。

 

「物質的なアクセスはなくなりますか?」

「そうね、おそらく、宝石のように贅沢品になるでしょう。他人と実際に握手をすることでさえ、特別なことになる。人と人が触れ合うような機会は、贅沢品です。」

中略

「地球環境を守りたいのなら、人は移動すべきではありません」

 

 

初見でこれを読んだとき、頭の中に浮かんだのは「攻殻機動隊」のような、まだ研究途中であるはずの電子世界のイメージだった。

しかし、現実は小説を侵食し始めている。

 

自分たちは今、彼女が語った世界に片足を踏み入れたのだ。

 

真賀田四季は言う。

「人間にそれを受け入れる用意があるのかという道徳的な問題」

「生まれながらにバーチャルリアリティの環境で育つ世代には受け入れられるでしょう。人間はプログラムより柔軟ですからね。人間のリアクションの問題も、ジェネレーションが変われば解決するでしょう」

 

 

ねぇ、ゾワリとしませんか。

 

この文を読むたびに、どうしようもない興奮に駆られてしまう。

常識的には、この時代のこういう内容で興奮するなんてNGかもしれない。

しかし、構うもんか、と思う。

こういうご時世だからこそ、自分の感覚を最優先にさせてもらう。常識ある範囲で自己中心的にならないと、多分潰れてしまうから。

 

人はあと数年といわず、今後しばらく「ふれあい」を尊いものとして生きた方がいい。

少なくとも、この災難がもたらした、たった一つの良いものは、これぐらいしかないのではないか。

空気を共有すること、誰かと語らうこと、未来に希望を抱くこと。

また、上記で言及されている「地球の問題」も含め、今一度すべてを冷静に見つめ直す時が来たんだろう。

 

 

それらすべてが、宝石のような贅沢品だったと知ったからこそ、今ならそれができる。

「まだ死にたくない」と、物書きの自分が叫んでいた。

文章は困ったもので、しばらく書かないと暴走を始める。

 

雨水の溜まったタンクの口を一気に開いてしまう様に、ドバドバドバ、とんでもない勢いで、文字の中に気持ちが溢れかえってしまう。

 

しかし、最近はご時世のためか、どうしても文章に影が差す。

洗練された影は、文章に深みを持たせるが、これはいわば火山灰のようなものだ。

 

熱くて、痛くて、不快で、でもどうしようもなく全員に平等に降り積もる。

 

こういうことは書きたくない。こういう息苦しさは誰かに見せたくない。

だから、しばらく書くのを諦めていた。

 

文章についてのブログを書くことすら、今3回消してやり直しているところだ。

 

それでも書くのは、タンクが溢れてしまったからである。

 

残念ながら、本来、人に見せるべき文章ではないだろう。

 

けれど、最近ふと思った。

「私は誰のために書いているんだ?」

 

言葉とは、放てばもうこの手には戻らない。

元気づける文章を、元気じゃない今は書けない。

誰かを想う文章を、自分の世話で手一杯な奴が書いていいわけがない。

 

noteは、なんだかあまりにも息苦しくて。

もう読まれない文章になってきた自覚がある。

 

だからこそ、「誰のために書いているか」に立ち返った。

 

別に、誰でもいいのだ。今のところ。

そう思えるようになったのは、村上春樹さんの「遠い太鼓」を読んだから。

 

遠い太鼓 (講談社文庫)

 

最近、「村上ラジヲ」を聞くようになり、彼が選ぶジャズや音楽の心地いいこと。

それにつられて、少しずつ、村上さんの本を読むようになった。

 

噛み締めるように、読んでいる。

 

セピア色のレンガ造りの街を歩く。

冬が厳しい国なのか、歩く人々は分厚い外套を羽織っているが、その足並みはくつろぐようにゆっくりだ。

そんな中、誰かが大きな写真集を開いている。そのページだけ、シャルトルブルーのように深く青く、鮮やか。

 

 

村上春樹さんの作品を読んでいて、こんな情景が浮かんでいる。

「遠い太鼓」の中で、今、深く胸を穿つ文章に行き当たった(まだ読了していないのだ)。

 

「午前三時五十分の小さな死」

だから長い小説を書いているとき、僕はいつも頭のどこかで死について考えている。

中略

僕は死にたくない・死にたくない・死にたくないと思いつづけている。少なくともその小説を無事に書きあげるまでは絶対に死にたくない。

中略

あるいはこれは文学史に残るような立派な作品にはならないかもしれない、でも少なくともそれは僕自身なのだ。

 

あぁ、あぁ、あぁ! そうだ。そうなんだ!

 

常に「終わり」という影が付きまとい、その「死について考える=終わり」こそが愛おしい。

 

私は、これが書きたかった。

 

影が足りなくて、影を書くことが怖くて、まだ書けていないから。

 

誰に見られなくても構わない。それこそ死んで引き出しの中で虫に食われても気にならない。

 

それをいつか書くまでは。

 

死にたくないんだと、物書きの自分は、気づいた。

 

 

 

 

再び立ち上がる力が欲しい。いつだって。

ここ数日、「とても疲れた」と感じている。

 

ゼィゼィと浅い呼吸で座り込んでしまって、体が言うことを聞いてくれない。

心が、休みを受け取ってくれない。

 

体も心も、曇り空だ。



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けど、人間は生まれた以上、生きるしかない。

 

心宥め、体をいたわり、「さて行きますか」と立ち上がる以外、道はない。

 

みんなはどうしているのだろう?

仕事をする人を見るたびに、突撃してインタビューしたい衝動に駆られる。

 

年上のあなた、先輩のあなた、あなたたちはどうしてそこにいるのですか?

 

やっぱり、こうやって重い水のように沈む溜息と、ほのかに香るスパイスのような絶望をゴクンと、薬のようにまるまる飲み込んでいるんだろうか。

 

・ ・ ・

 

この苦しさから逃れる術を、一つしか知らない。

 

本を読むこと。

 

別世界を見せて、生かしてくれる。

 

この体の半分は文章で出来ていると思うのは、ほとんど訛りを持たないのに言葉の発音が違って、他人に呆れ小ばかにされる時だ。

 

幼いころ、喋ることよりも読む方が達者すぎた弊害。

学校で学ぶよりも前に、本を読むときに頭の中で勝手に再生された音が、大人になったこの口から飛び出ている。

 

未だに警戒がゆるむと発音を間違えるので、何とか必死に「普通」を装う日々である。

 

半分は架空の世界に生き、もう半分は現実に生きている。

 

もう治せない生き方だ。

呪いのようでもあるし、誇りでもある生き方。

現実に疲れたら架空の世界に移動する。

 

社会に生きるようになって、そうあってもまだ、生きるのは難しいと思い知っている。

 

・ ・ ・

 

 

写真集は、窓だと信じている。

 

特に、大竹英洋さんのこの写真集を読んでから、その想いがさらに強くなった。

 

ノースウッズ─生命を与える大地─

 

知らない景色、普段は目を留めない色、気にすることもない木々や動物。

 

手を伸ばしても、その被写体たちに届くことは、もちろんない。

 

しかし、写真に撮られた動物たちは、今でも全うしているのだろう。

 

自らを必死で生かし、子を育て、そして大地に還るという営みを。

 

そこに写る雄大な自然は、人間と比べることさえはばかられる永い時間を過ごしているのだろう。

 

写真は不思議だ。

語りかけることもなく、ただ、響く。

 

心が疲れて何も感じなくても、風も匂いも感じられなくても、内側のどこかが共鳴してくれる。

 

その響きは、いつか必ず大きくなって、木霊し続ける。

 

心を通じ、体を飛び越え、現実に届く。

 

それはきっと、生命の躍動。

 

普段、意識なんてすることがないほど深いところにある、自身の「生きたい」という根源がもたらす響き。

 

社会で忘れてしまう「響き」を、厳しい自然の中に潜む優しさが取り戻させてくれる。

写真集を見ると、そのわかりづらい優しさを、撮り手が丁寧に手渡してくれる。

 

海を越え、時間を超え、荒々しい自然の営みへ。

気が遠くなるほどの古来から、現実に存在する命の輝きの方へ。

 

「さぁ、命を輝かせよう」

 

手を伸ばしても届かない風景に、魂が伸ばした手は確かに届く。

私はまだ、立ち上がれる。

五感を、取り戻す日々

「どんな写真が撮れるかな」と、空ばかりに目を向けていた。

しかし、ふと足元を見ると、そこには可愛らしいドクダミの花。


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花びらの白がまぶしく、土の茶色と深い緑に紛れ、なお輝く花。

カメラの技術が乏しい私は、フォーカスすることなく、そのままその場にしゃがみ込み、一枚撮らせてもらった。

 

角度や色合い、専門家ではないけれど、心が「よし」と納得できる写真が撮れたので立ち上がる。

 

すると、ほんの一瞬だけ、ふわりと「土の香り」が舞ったのだ。

 

おや、と進もうとしていた足が止まった。

 

この香りをかいだのは、もうずいぶん前。

いや、まず、「自然の香り」を嗅いだのが、もうずいぶん、前だったなぁ。

 

花の瑞々しい香りや、湖などの水の香り――。

 

映像や香水では得られない、空気中に充満して、「存在そのもの」がそこにあるとわかるもの。

 

疲れてくると、まず「香り」を忘れてしまうんだ。

食べ物も「胃に入ればいい」という気持ちだけで、あまり味わって食べなくなっていた。

触覚は、キーボードを打ち間違えないようにと気を配るだけにとどまった。

 

香りが無くなって、感動が失せて、ロボットみたいに機械的に動いた方が楽なんじゃないかと思いながら、毎朝時間に追われて道を走る。

 

でも、このごろは少し余裕が出てきて、そういうことを「問題視」する力が戻ってきたようだ。

 

ブログを始めたから、写真を撮ることを習慣にしようという気力が出てきた。

そうなると、香りを大切に感じなければ、きっと写真の中に「何か」が宿ることはないんだろう(という素人考えですが)

 

そんな風に、周りに目を向けながら、心のアンテナを研ぎ澄ませて、五感を少しずつ取り戻していく日々を始めている。

 

千羽はる

 

 

 

 

 

 

世界がきれいに見えたから

「エッセイが苦手である」

一番印象に残っているエッセイの、一行目に書かれていた言葉を思い出す。

そのエッセイは素晴らしかった。

日々の中で泡のように浮き上がる、何でもない、けれど、とても色鮮やかな出来事や。 旅先で出会った光景、その空気、心をかすめていった風のような事柄に、文字という彩りを添える。

今でも本棚で一番目につきやすい場所に置き、ふと気づいた時には手に取っている。

小説以外(新潮文庫)

誰かの日々をこっそりと覗き込む気分で、そろりとページをめくってゆく、私の手。

教科書の中で見た、噂の美女を塀の間から恐る恐る覗き込む、平安時代の貴族を思い出す。

エッセイにしろ、ブログにしろ。 誰かの心を少し覗くのならば、私もまた少しだけ見せてみようといういたずら心が湧いた。

だから、読みに来てくださったあなた。

初めまして。

今日一日は、なんでもない日だった。 ただ、仕事が終わって何の気なしに見上げた空。 吸い込まれそうになって、思わず写真を撮っていた。 f:id:planetes228:20210607223437j:plain

夏の空は、手を伸ばしても届かない青色をしていると思う。 ただ、今日の空は少しだけ、見上げた人に優しかった。

「あぁ、今日を書こう」

頭の中に、視界に入りながら、黙殺していた風景が浮かぶ。 通勤という日常の中に埋もれさせてしまった、胸を突く画。

たとえば、あの家の前に咲く紫陽花。 f:id:planetes228:20210607223515j:plain

たとえば、瑞々しく咲き誇るユリ。 f:id:planetes228:20210607223545j:plain

いつもと何も変わらないはずの世界が、なんだかとても、きれいに映る。

かつて、貴族の女性は顔を見せず、その美しい裾のみを見せたという。

煌びやかな男性たちに夢を見せた、平安の令嬢。

もちろん、彼女たちを見習おうなんて思わない。 ただ、その「夢」を見せる姿勢が、とてもきれいに見えたから。

私がこれから書くのは、平凡な日常であり、とんでもない「きれいごと」。 もしかしたら、時には誰かのためになる何かを書くことができるかもしれない。 もちろん、誰かから呆れられる言葉をつづるのかもしれない。

願わくば、朝だけ咲き誇る小さく青い月草のように、視界に入って、忘れて、そしていつかは思い出す。 そんな言葉を、ここに落としていけたらと思う。

千羽はる